昨日テレビで藤堂高虎のことを特集していました。見入りましたね。

昨日テレビで藤堂高虎のことを特集していました。見入りましたね。

上にも下にも評判が良い、

秀長や家康が最も信頼した、戦国一の世渡り上手

歴戦の武将で何度も主君を変え、また築城の名手としても知られます。

大河ドラマでやってほしい人ですね。

火坂雅志の「虎の城」で人物に引き込まれました。

最初の禄高は300石でしたが、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いを経た頃には5000石、紀州の雑賀・根来攻めの功で1万石、さらに九州征伐の武功で2万石となりました。 天正19年(1591)に主君の秀長が病没すると、その猶子・秀俊(秀保)に仕えますが、文禄4年(1595)に秀俊も病没して主家が断絶。やむなく高虎は剃髪して、高野山に籠もります。しかし高虎を豊臣秀吉が放っておかず、秀吉の直臣として、伊予宇和島に7万石を領し、さらに慶長の役の武功で1万石を加増されました。

領地を接する伊予松山の加藤嘉明とは、仲が悪かったことで知られます。

そんな高虎が徳川家康と親しくなったのは、天正14年(1586)の頃からだったといわれます。慶長3年(1598)に秀吉が没すると、高虎はなりふり構わず家康に恭順し、「家臣同様に扱ってほしい」と申し出た変わり身の早さには、眉をひそめる者も少なくありませんでした。しかし、そこには高虎なりの理屈がありました。「武士たる者、旗幟不鮮明にすべきでなく、常に己の立場を明らかにすべきだ」というものです。確かに関ケ原前夜、誰もが他人の顔色を窺う中で、高虎は明確に徳川に従うことを示していました。

そして関ケ原。高虎は家康の内命を受けて、4人の西軍武将の内応を取り付けています。正午頃、松尾山の小早川秀秋が寝返った時、予測していた大谷吉継は慌てず、小早川の大軍を何度も押し返しますが、自分の配下にあった4将まで裏切ったことは想定外でした。その4将、すなわち脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保を調略によって寝返らせた男こそ、高虎です。これによってさしもの大谷隊も壊滅し、西軍の敗北は決定的になりました。

この功により、高虎は伊予半国、20万石の大大名となります。

さらに慶長13年(1608)、家康は高虎を伊賀一国及び伊勢八郡に国替えし、しかも今治2万石は従前通りとしたので、総石高は22万9000石となりました。 これは将来の大坂方との戦いを睨んでのシフトで、伊賀からであれば木津川を下って1日で大坂に到着するのです。 そして慶長19年(1614)、大坂冬の陣が勃発すると、高虎は井伊直孝とともに先鋒を命じられ、翌年の夏の陣でも先鋒を務めました。夏の陣では八尾の戦いで、長宗我部盛親勢を相手に激闘を演じ、多くの家臣を失いますが、それもまた家康の信頼を深めることになります。

大坂の陣後、伊勢で5万石を加増され、弟・正高が与えられた領地も含めると、藤堂家の総石高は32万石余りとなりました。家康は高虎への信頼の証に、「今後、有事の際には藤堂を先手とせよ」と側近に命じています。また高虎は築城術にも長けており、高虎の縄張とされるものに、伊予今治城、伊予大洲城、伊予宇和島城、伊勢津城、伊賀上野城、丹波亀山城、丹波篠山城などがあります。その他にも、江戸城、名古屋城、和歌山城の天下普請にも参加しました。

ところで、高虎の若い頃の逸話として次のようなものがあります。

主家を退転して牢人であった時、三河吉田宿にあてもなく来た時、空腹の余り、「三河餅」の茶店で、餅を20個も無銭飲食してしまいました。ところが店主の吉田屋彦兵衛は、高虎が只者でないと見たのか、「そんなにたくさん食べて頂けるとは商人冥利に尽きます。お代は頂きません」と言い、むしろ故郷への路銀を渡します。高虎は「一国一城の主になった時、必ずお返しする」と感謝しました。

後に大大名となった高虎は、参勤交代の折にこの茶店に立ち寄り、「あの折の餅代とお礼だ」と言って、過分の小判を渡したといいます。 高虎は子孫にも、参勤交代の折は必ず吉田屋の店に寄り、餅を食すよう伝えたとか。講談などで、「藤堂高虎、出世の白餅」として知られる話です。ちなみに高虎の旗は白い三つの白餅。この時の餅とも、「城持ち」にかけたものともいわれます。

また、『名将言行録』にはつぎのようなエピソードが記されています。

関ケ原合戦後のこと、捕われた石田三成のもとを高虎が訪れました。もともと親しく交わっていたこともあり、高虎は「武士は相身互いと申す。勝敗は是非なきこと」と挨拶します。 その上で、「敵方から見て、我が陣で気のついたことがあれば今後のために承りたい」と三成に尋ねました。率直な物言いに三成も「されば先手の鉄砲頭の働きが十分でなく見えたのは、小身(禄高が少ない)のためではないか。小身と大身とでは、働きは随分違うものだ」と応えます。三成の言葉を聞いた高虎は、さっそく鉄砲頭を千石取りにしたといいます。

また高虎は、槍の勘兵衛こと渡辺勘兵衛を2万石で召し抱えました。これを聞いた加藤左馬助嘉明は、「和泉(高虎)は馬鹿なことをする。わしならば2万石で200石取りの侍を100人抱えるだろう。いかに槍の勘兵衛とて100人の侍に勝てるはずもない」と言います。すると高虎は「左馬助は物知らずじゃな。平侍の200人や300人が敷いた陣など、軍勢が怖れようか。ただ踏み潰して通るまでよ。ところがこれが、あの槍の勘兵衛が固めた陣と聞けばどうか。敵は肝を冷やすであろう。勘兵衛を抱える利はここにあるのだ」。

寛永4年(1627)、会津若松の蒲生忠郷が嗣子なく没したため、改易となりました。

代わりに誰を若松城主とすべきか、幕府内で議論した際、高虎が進み出て言います。

「加藤左馬助しかおりますまい。彼の者、賤ヶ岳七本槍の一人にして、関ケ原、大坂の陣でも徳川家に忠節を尽くしました。律義者の左馬助ならば、どんな要地も任せられましょう」。 これを聞いた将軍徳川家光は、「足下と加藤嘉明はかねてより不和と聞いていたが、その私怨を捨てて、公儀のためを思う姿勢、なんと義にあつきことよ」と賞賛しました。加藤嘉明は伊予松山20万石。会津40万石の太守となれば、石高は倍増することになります。この話を知った加藤は驚き、すぐに高虎のもとを訪ねます。「わしらは朝鮮での戦功争い以来、交わりを断っていたが、おぬしは私怨を離れ、国のためにわしを推挙してくれたという。かたじけない。願わくばこれまでの諍いを水に流したい」。以後、二人は親交を結びました。

高虎は家臣に常々こう語っていたと言われます。「寝所を出るより、其日の死番と心得べく、箇様に覚悟して寝る故に物に動ずることなし」。つまり朝起きた時、その日が自分の死ぬ日であるという覚悟をもって生きよ、という意味でしょう。また、こうも言っています。

「小事は大事、大事は小事と心得べし。大事の時は、一門知音打寄り、談合する故に、大事にはならざるなり。小事は大事と言ふは、一言の義にて打果つるなり。然る故小事は大事と慎むべし」。

戦乱の世から泰平の世へ、極めて難しい時代を生き抜いた高虎の言葉は、

現代にも通じるものがあるように感じられます。

だから好きなんです。